宮下公園夏まつり『盆踊り』

宮下公園夏まつり『青空カラオケ』

宮下公園夏まつり『アルミ缶つぶし競争』

宮下公園夏まつり『チンドン屋』

こちらはA.I.Rの展示物ではありません。

「何するねん!」

うぎゃー!

アトリエ・ワンは、建築理念を語る上で、関東大震災後のバラック研究を通し考現学を提唱した今和次郎(1888-1973)、路上で見つかるすべての物をその観察対象として路上観察学会を立ち上げた赤瀬川原平(1937-)や藤森照信(1946-)らの批判的な継承をうたっています。そこには、大きな資本や権威主義的な建築ではなく、路上に散見される生きる工夫に対する共感や敬意がこめられていたはずです。また、そのような環境と社会が共生する建築のあり方が評価され、第12回ベネチア国際建築ビエンナーレ日本代表にも選出されました。彼らの建築に対する態度を踏まえ、日本館コミッショナーである北山恒は以下のように述べています。

[…前略]2008年の資本主義経済の大きなクラッシュの後、資本権力のアイコンとしての建築が都市の主役から退場し、生活を支える建築のあり方が問われている。都市とは経済活動の場であるのだが、同時にその都市の大多数を占める主役は生活の場である。そこに立ち戻り、20世紀後半に展開した資本のスペクタクルではない、生活を主体とした静かな都市要素の集積が壮大な都市の変化を創ろうとしている、その変化そのものを表現したい。歴史上存在した、あらゆる都市は何らかの偏在する大きな力(権力)によって形作られてきた。私たちが眼前にみる生命体のように変化し続ける現代の東京において、これまで出現したことのない、遍在する弱い力(徹底した民主主義)による都市風景が生まれようとしている。それは、私たちが獲得しなくてはならない、環境と共生する都市、そして共同体としての生活を支える建築の姿を指し示しているようにも思える。

今、アトリエ・ワンがデザインを担当する宮下公園のナイキ化計画が進行中です。そして、その計画の目的の1つが公園内に住居を構える路上生活者の排除です。つまり、この宮下公園ナイキ化計画に加担するということは、北山が批判の対象とする「偏在する大きな力(権力)」による「資本のスペクタクル」を肯定し、同時に、路上生活者などを含む「遍在する弱い力」による「共同体としての生活を支える建築」を真っ向から否定するものでもあるのです。ですから、北山の読み取ったアトリエ・ワンの建築理念を実践するには、宮下公園のナイキ化計画から撤退する必要がある、と私たちは考えます。アトリエ・ワンが引き続き宮下公園のナイキ化計画に参加することは、これまでの業績が批判的検証されることをも意味します。

アトリエワンとまちあわせ

video:http://www.youtube.com/watch?v=p-xlhYCfQWY

When Atelier Bow-Wow explain their philosophy, they refer to people like Wajiro Kon (1988-1973), Genpei Akasegawa (1937-) and Terunobu Fujimori (1946-). Kon established modernology (as opposed to archaeology) through his ethnographic fieldwork on informal shelters that victims of 1923’s Great Kanto Earthquake built, while Akasegawa and Fujimori established Roadway Observation Society in 1986 to shed light on every little thing on the streets that could be a research object for artistic and architectural practices. Should Atelier Bow-Wow consider themselves as successor of these people, then their standpoint would be more in line to sympathise and respect the wisdoms applied to informal shelters such as use of discarded materials than to pursue large commercial, authoritarian architecture. Having been credited for such philosophy, Atelier Bow-Wow have been given opportunity to represent Japanese Pavilion for the 12th Venice Architecture Biennale. Koh Kitayama, the commissioner of Japanese Pavilion, introduces the concept of Japanese Pavilion as following:

Following the devastating crash of the capitalist economy, architecture, an icon of economic authority, has lost its leading role in the city and come to be questioned for its manner of supporting our lives. Although the city is the site of economic activity, the vast majority of its functions are concerned with daily life. Rather than looking at the economic spectacles that were developed over the latter half of the 20th century, I would like to express the fact that change itself, as an accumulation of quiet urban elements with daily life at their core, affects a spectacular influence on the appearance of the city. Throughout history, every city has been shaped by an uneven distribution of power (authority). In contemporary Tokyo, continually changing like a living organism before our eyes, an urban landscape, which has never appeared before, is being born out of a ubiquitous yet weak form of power (complete democracy). This also indicates the form of architecture that we must attain in order to support our lives as a symbiosis between environment and city, and as a community.

Right now, Nike’s project to regenerate Miyashita Park has been undergoing in Shibuya and Atelier Bow-Wow participate in the project as designer. One of the purposes of this project is ruthless gentrification of the park to evacuate homeless people who built informal shelters for living. In other words, Atelier Bow-wow’s participation means to support “the economic spectacles” by “uneven distribution of power (authority) which Kitamoto criticizes, but denies architecture of “ubiquitous yet weak form of power (complete democracy)”, including homeless people, which represents “as a symbiosis between environment and city, and as a community”. We strongly condemn their participation to the Nike’s project. Should Atelier Bow-Wow (Yoshiharu Tukamoto) put into practice their concept Kitayama incorporated in his introduction, they must withdraw from the regeneration of Miyashita Park. If Atelier Bow-Wow continues to participate in the project, their previous achievement should also be undermined significantly.

Atelier Bow-Wow

どなたかのプレゼント。服が大量に置いてありました。

7月10日 服の差し入れ

江上賢一郎さんが以下のサイトで「ベンチつくる、公園をつくる」という文章を書いてくださっています。

http://urban-potlatch.blogspot.com/2010/07/blog-post.html


「ベンチをつくる、公園をつくる」

東京で、ナイキによる公園の私営化に反対し、スクワットを続けているA.I.Rからの映像。東京都や他の大都市の行政は、意図的に公園や公共スペースから、普通のベンチを撤去しており、その代わり、長時間座らせないようにデザインされたベンチ(座る場所に傾斜がついているものや、間仕切りして横になれないようにしているもの)を設置している。このベンチの存在に気がついたのは、確か2004年頃、東京の上野公園でやけに座り心地の悪いベンチがあることに気がついたときだと思う。噴水前に並んでいたそのベンチは、一見、木製の普通のベンチだけれど、いざ座ってみると、傾斜がつけてあり重心が前方に来てしまい、中腰の姿勢になってしまうし、ベンチに仕切りがついているので横になることもできなかった。こういうふうに、ベンチという一見 という人を受容する機能の中にすら排除の論理を組み込むことに対する強い憤りと、同時に圧倒的な資本と権力のソフトパワーが街に浸透することへの無力感を感じたのを覚えている。

けれども、もし、そんな不愉快なベンチしかないならば、自分たちで、自分たちが良いと思うベンチを自分たちで作り出せばよいのだ、ということをこの宮下公園の映像は教えてくれる。ベンチを作り、その場所に置くということは、自分たちだけが使うのではなくて、他所から来た人を受け入れることも意味する。座ることで、誰もがその場所をゆっくり味わうように、体をその場に預けることがでるし、追い立てられるように歩かせられる商業空間を離れ、再び土地と身体が繋がっていくのを経験する。ベンチを作ること、そしてベンチを置くことは、資本に浸食されたフラットな空間に、クサビを打ち込む作業のようだ。クサビで開けられた小さな空間こそ、資本の終わりの場所、そして別の社会への想像力が始まる場所だと思う。

手作りのベンチと、下のベンチ、どちらのベンチに座りたい?
寝過ごすと身体に穴があく有料ベンチ

PAY & SIT: the private bench (HD) from Fabian Brunsing on Vimeo.

「ベンチをつくる、公園をつくる」

Our actions make park/ベンチ作り

Our actions make park

暑い!!中、ベンチづくりをやりました。材料は、山谷からいただいたパレットです。3時間くらいかかって、2つ作りました。出来は、、意外とちゃんとしている!(自画自賛)。みなさんのご利用をお待ちしています。

前回のベンチを参考にしつつ

暑い中、公園課倉庫脇の不法投棄されたゴミを掃除しました。
以前は、集積所だったようですが、今は回収にきません。(今年の3月くらいから、、。)
ゴミ袋で、20袋くらいになりました。

公園課倉庫脇のゴミを片付けました。

パレットをもらいました。ベンチになります、お楽しみに。

パレットをもらいました。

『宮下公園こーりんぐ』報告

「音楽について素人ですが、いろいろな曲を聴くことができ、いろいろな感覚になることができたのが良かったです。普通の商業的なコンサートってロックならロックだけとか、民族音楽なら民族音楽だけということが多いように思います。このコンサートではあえて、何か特定のジャンルの曲だけを演奏するというわけではなかったので、音楽についていろいろな好みの人が集える集まりになったような気がしました。river」

『宮下公園こーりんぐ』報告

5月30日(日)16時~、宮下公園にて

路上演劇「フリーダとディエゴ」
Alejandra Rescala アレハンドラ レスカーラ
Rodrigo Corea ロドリゴ コレア
from メキシコ

メキシコを代表する画家、フリーダカーロとディエゴリべラの2人の関係をイメージしたパフォーマンス。
ディエゴのフリーダに対する「愛」と、フリーダの苦難。
「わたしは溺れそうだった。でも、自分で泳ぐことを覚えた。」フリーダ

<16時45分~アーティストを囲んで、アフタートークをします。ご参加ください。>

※アルコールの持ち込みはご遠慮ください。
※大雨の場合中止。小雨くらいなら決行します。

路上演劇「フリーダとディエゴ」

《宮下公園リアリティーツアー》

電車に乗って宮下公園までみんなで行ってみる。公園ではアーティストのいちむらみさこさんと待ち合わせ。彼女と一緒に公園を散歩してみる。すると、地域やコミュニティとかメディアだとかアートだとか話しているアワープラネットTVの人たちとremoTokyoの人たちに遭遇する。こんにちは。そこで、彼・彼女たちの話し合いに耳を傾けるのもいいだろうし、公園で遊んでいてもいい。自由時間。それから、公園を離れ、電車に乗って戻ってくる。午後6時、ただいま。雨の場合は中止。無理しない。

【日時】2010年5月22日(土)14:30出発
【集合】アサヒアートスクエア(入り口)「浅草駅」徒歩5分
【参加費】無料(往復交通費460円が必要になります)

【公園ガイド】いちむらみさこ(アーティスト)
【メディエーター】藤井光(美術家・映像ディレクター)

【主催】東京生活転回法-How to invert urbanism(仮)Survivart/http://asakusa.survivart.net/wp/
【協力】A.I.R Miyashita Park/OurplanetTV/remoTokyo

みやしたさんが骨折した理由

みやしたさんが骨折した理由/宮下公園