12月4日「ナイキ化反対インフォセンター」レポート

ラテンで、インフォセンターISバーニング
寒さを吹き飛ばせ、とばかりに、DJ盆栽のラテンフレイバーの曲が、立て続けに流れ、そこに、ムラミンゴやカスリッパのナイキ化をデスるMCが被さり、どこかインド舞踊を彷彿とさせるデンジャラス蝶子の創作ダンスが路上を脱臼させる、、、という最終局面に至った今回のインフォセンター、異質なものこそが、路上の王であり、決してナイキには実現出来ない質こそが(したくない質こそが)都市の解毒剤である、、、という風にも解釈したいところ、、、というか、まぁ、そんな感じであった。
 まずは、私が30分遅刻したことによって、19時30分より看板などの準備、45分に開始。
前回も来てくれたHさん、東京大学の社会学の学生のTさんが来てくれる。
路上のハギさんが寄って、お茶を飲む。
盆栽さんのラテンの曲によって、たぶん南米の人が近寄ってくる。しかし、日本語も英語も解せず、スペイン語のみ、、さすがにチラシがないが、全員と熱い握手。路上生活をしていると思われるおじさんも座りこむ。さりげなく、ビラを渡したりもしてくれる。マイクアピールなど適当にする。
デンジャラス蝶子(以下デン子)さん登場。ノジレンの面々が、路上パトロールのついでに寄っていく。シモキタさんが登場。
映画監督の大木裕之さんたちが偶然、通りがかる。しばし談笑。先日、イベントに宮下公園のことで呼んでもらったばかりだ。
ムラミンゴさん自転車で登場。いきなり、マイクを握りデン子を煽る。創作ダンス。デン子は、踊りながらも着実にビラも配布。シモキタさん、Tさんのインタビューを受ける。
かなり盛り上がってきた21時30分ころ、遠くから警官の姿。やはり、我々を注意に来たらしい。「苦情が入ってしまいまして、、匿名で。」というので「どんな苦情です?」と聞くと「音量のことです。」。「じゃあ、絞ります。あと30分で終わりますから。」というとすぐに帰っていった。近隣ではなく、通行人からの苦情とのこと。そこで、盆栽さんのギター演奏に。ボサノヴアなど。適当に、フェンスなどを叩き演奏をする。しだいに演奏もノリがよくなり、再び、フェラクティやラテンの曲に移り変わり、カスリッパが上乗せでラップ。スケーターがきたり、チラシもそこそこもらっていく。そして、、、前述のフィナーレに向かって、フェンスを前に我々が踊っている空間に。長々と。
終了は22時45分。
(写真3枚)

12月4日「ナイキ化反対インフォセンター」レポート

11月03日「アンチNIKEパーク相談インフォセンター」レポート

15時から宮下公園大階段のフェンス前で、始める。
守る会のNさん、Iさんがくる。
前回立ち寄ってくれた明治学院の学生さん(社会学)が2人連れでくる。
お茶を飲み、みかんを食べる。
警備員の方に、フェンスからの出入りの通路だけはあけてください、といわれる。
公園内に住んでいたMさんがやってきて、学生さんらと歓談。変幻自在なMさんの語りのペースに学生さんらは、はまっている様子。
17時30分にインフォセンターを畳む。
次回は来週になると思います。

11月03日「アンチNIKEパーク相談インフォセンター」レポート

11月01日「アンチNIKEパーク相談インフォセンター」レポート (写真2枚)

14時30分くらいから、大階段の前(歩道の反対側)で開始。
大階段のところに掲示してあるイメージ図はかなりの人が見ていきます。
「建築基準法による確認済み」なる掲示が新たに加わりました。設計者がアトリエワンと書いてあって、おそらくは、それを表に出したくなかった故の時間差掲示なのではと思われます。
 明治学院の学生の方が、話しかけてきて、段ボールに座って、お茶を飲む。社会学をやっていて上野の路上生活のコミュニティを調べている方でした。渋谷にも、一応調査をかねて来たようでした。
 人はこちらを気にするけど、チラリとみる感じ。しばらく寝る。
 知人のIさんがやってくる。菓子を食べる。イメージ図を写真にとっている人がいるので、声をかける。
スケーター。原宿にあるデザイン専門学校に通っていて、宮下公園がみんなが楽しめる公園にするにはどうしたらよいか、を研究しているとのこと。卒論だったか、、、。スケボー場が有料になることは知らなかったようだ。しばらく話す。
知人のMさんが、いつものように酔っぱらってやってきて、ジェスチャーにて会話。
 17時すぎに終了。
平日昼なのにも関わらず、宮下公園のことを関心もって訪れている様子の人がチラホラ散見された。

11月01日「アンチNIKEパーク相談インフォセンター」レポート

10月11日「アンチNIKEパーク相談インフォセンター」レポート (写真3枚)

少し遅刻して14時ころからスタート。
いきなり、元気がいいいいい!!!!元気がいい女性が登場。
激しい面白すぎる語りに圧倒されました。
元ボクサーの友人も、思わずノックダウン。(写真1参照)
スペースシャワーTVに、いきなり取材をうけました。(写真2、3参照)
スケーターが「スケートパークできるの、やったぁ。何?有料、いかねぇよ。」と言い残し去る。
バーべQに来た3人連れが「入れないの」と不満そう。「横にもなれないのか」とじっと公園をにらむ。
そんなこんなで17時まで、、、最後まで元気な女性のトークに元気づけられながら、徐々に夕方になる渋谷に座っていました。
きてくれたみなさんありがとう。
近々またやります。

10月11日「アンチNIKEパーク相談インフォセンター」レポート

「Parkさんと自律空間レアを語る夕べ」レポート

 今回『PARKさんとRheaを語る』というイベントに参加し、「Rhea」(レア)に関する写真、話をPARKさんから聞きながら公共空間とは何か、公園とは何かについて改めて考え直させられた。というのも、宮下公園の現状と「Rhea」の背景にはいくつもの共通項のようなものが見て取れるからである。
 私自身、宮下公園の現状についてはっきり理解しているとはいえないがPARKさん達が龍山(ヨンサン)のキャンドルメディアセンター「Rhea」で体験した系譜を見ることにより宮下公園の置かれている現状が俯瞰的に見ることができた。
韓国では現在、再開発が行われており、その再開発というのは空間を開拓するのが主体で住人には配慮されておらず公共性についても同様のことが問題となっている。
 また、現在その再開発がなされている地域というのは貧困層の多い地域で再開発により貧困層の人々の居住区が無くなってきているという。そのような再開発が行われている地域の一つである龍山(ヨンサン)はソウルの真ん中に位置し、交通の要所としても機能している場所である。そのような場所に非正規のメディアセンターを作ろうという考えからキャンドルメディアセンター「Rhea」は作られた。「Rhea」は元々はビアガーデンで立ち退きに反対されて亡くなられた方が経営しておりその遺族の方達に了解を得て作られた空間である。「Rhea」は四階建てでそこはカフェ、ギャラリー、メディアセンター、とっても貧乏なアクティビストの宿泊施設という多彩な空間であった。そのことをPARKさんが複合闘争空間と言っていたのがとても印象的だった。
 しかし、そんな「Rhea」も今年1月末に閉鎖された。撤退の際、行政に対しPARKさん達は3つの要求をした。1、遺族の保証 2、政府の謝罪 3、龍山再開発反対運動のなかで逮捕された仲間の釈放。
要求の結果、1は承諾され2は遺憾の意の表明に止まり3は却下された。そんな「Rhea」での生活をPARKさんは特別だったと振り返る。いろんな人達が来て対立とかもあったが、重要な事は出会いの場所であり安心して話すことができる場所として機能することである。と強調して言っていた。これは宮下公園が目指している場所そのものであり、そのような場所にしていくためのヒントは「Rhea」にあるのではなかろうか。

RINTARAW

「Parkさんと自律空間レアを語る夕べ」レポート

『怒る西行』上映会レポート

“宮下公園の、『西行』” 

 七月二十三日夜、渋谷区宮下公園で、『怒る西行』の上映をやらせて貰いました。
 御承知の通り、映画界の現状たるや作るよりも興行する方も何が何やら訳の分からない状況で、それに比べれば(金銭面は別にして)非常にシンプル、すっきりした上映会だったと思います。
 ところで…上映会の後、山川君とのトーク、そして質疑応答という事になったのですが…最後のほうで、或る妙齢の女性から、「沖島さん、とっても素敵。皆さんも、そう思われませんか?その事について、御本人はどう思われているのか伺いたいと思います。」 
 空には黄色い月が昇っていた。
 私はしばし愕然とし…それから、山川君と顔を見合わせた。長い沈黙の後、やっと口をついて出たのは、「私はもう、いゝ年令[とし]でして…朝起きる度に、一日一日、体力の衰えを感じております。それで、何時死のうかと考えています。もう一仕事して死ぬか…それとも、このまゝ何もしないで死ぬか、今、考えているところです。」
 これは事実です。もっとも、「一仕事」の中身は、既に完成させている三本のシナリオを映画化する事が含まれているので、これはこれで大変なのですが…。
 『怒る西行』は私自身が出演し全編喋りまくっている映画だから、その事についての質問が出るのは覚悟の上の映画なのだが(「あつかましい」とか「図々しい」とか)、しかしこのような質問が出ようとは…!
 そこで、「私のように、他人に自慢出来るような何物も持っていない人間ですら、かつて或る女性から、ちょっとナルシスト的なところがあるんじゃない?と言われたことがあり…」
 そこで―「自分へ対するストイックな厳しさ、自分自身へ対するあまりに厳しい自分が居る。その事が、そのような印象を与えたのではないでしょうか…」
 答えになっていたかどうか…。しかし、一年に一回も鏡を見ないような人間に、こう云う質問をされても…(!)
 続いて、「西行」の話に話題を移した。
 西行は、物凄く女性にもてた人物です。それは白洲正子氏が、その著『西行』でしきりに述べておられるし、事実、白洲氏自身が西行という人に惚れ込んで、あの名著『西行』をものにされたのですから。
 しかし、西行は二十四才の時、突然出家する。
 これはトークの時には言わなかった事ですが、西行(本名=佐藤義清)は幼くしてまず母を、次いで父を亡くしている。そうして父方の祖父からは武術を、特に弓術と馬術を徹底して訓練され、又、母方の祖父からは、文物と蹴鞠(けまり)を仕込まれた。「重代の勇士」と言われていたから、先祖代々の武人の出で、初代・儀藤太秀郷から数えて九代目の孫と云う事になる。「家富み」何不自由無い暮らしであったと云うが、宮仕えの職も妻子も捨てゝ、キッパリ、出家した。その理由については過去様々な説が唱えられているが、本当のところは分かりようもない。
 たゞ、こゝで思い出すのは、三田誠広氏の小説『西行』の冒頭に出て来る、西行の幼少の頃の事である。彼は現在の岐阜県・青墓という宿場町で、遊女の家に預けられた。遊女といっても格式のある家で、今様の名手が代々続いている。幼い義清は、或る夜目覚め、自分は何故こゝに居るんだろうと思い、遠く女達の歌う今様を聞きながら、再び眠りについていく。両親のいない淋しさは当然のこととして、それ以上に、女達の愛情を一杯に受けて育ったのである。西行の出家を思う時、自分は何故こゝに居るんだろうと云う根源的不安と、栄養たっぷりな、女達の愛情を思わずにはいられない。
 平凡な大人の生活(下級貴族としての宮仕え)を、生の旨味をたっぷり吸った少年・義清が、許さなかったのである。
 最後に、有名な今様の一つ(この冒頭の一行が、私の予定している三本の作品の一つのタイトルになる予定です)を掲げておく。

 遊びをせんとや 生まれけん
 戯れせんとや 生まれけん
 遊ぶ子供の声聞けば
 我が身さえこそ 動(ゆる)がるれ

 「出家してからの西行の、修験者のような生涯は、どこかで、母性的・女性的なものに支えられている…そういう意識なしには、難しかったのではないでしょうか?」
 そんな言葉で、トークは終わった。

 山川君が言ったように、最初、真上にあった月は、随分と、西の方へ傾いていた。
 宮下公園の「西行」は、怒っていただろうか。

 沖島勲(映画監督)


 とにかく雨が降らなくて良かった。個人的な記憶を紐解いていくと、六年前から宮下公園での屋外上映会は雨に祟られていた…そんな苦々しい気持ちでいっぱいになる。それも普通の雨ではない。天気予報などおかまいなしに必ずやってくる叩き付けるような大粒の雨、風で木々が唸るようにスウィングする暗闇の公園の光景、それらはほとんどトラウマのようになって私の心に黒く焼き付いていた。ところがこの夜はといえば、これまでとは様子が違う。心地よい風が吹き、木々のあいだから真っ白な月が姿を見せてさえいるのだから。安堵を超えて、なんだかちょっぴり悔しくなってくる。どうやら「僕は晴れ男だから」という沖島さんのオーラが、私の雨男ぶりを凌駕したらしい…。

 沖島勲監督の『怒る西行』(2009年)を現在の宮下公園で上映しようと思い至ったのには、いくつかの理由がある。再開発の危機にある玉川上水が舞台となった映画であることはもちろん理由の一つであるが、そのことばかりを念頭において映画を観始めると観客は肩すかしをくらうことになるはずである。映画は冒頭から最後まで徹頭徹尾、沖島勲の文学、美術、散歩道のつれづれなる思索の断片が語られるがままに流れてゆき、それはほとんど個人映画と言ってもよい体をなしている。もし反対運動を鼓舞し高揚させるもの、あるいは再開発に晒された場所に相応しい情報を映画に期待していたとすれば、人は怒りだすか、呆れるか、さもなければふと自らの思考の歩みを止めて、ただただスクリーンの中の沖島さんの歩みに同伴するようにして、自らの眼差しを這わせていくことになるのではないだろうか。これまでの宮下公園屋外上映会の積み重ねがあってこそではあるけれども、『怒る西行』の上映は「再開発」という前もって与えられた情報を一旦忘れて、風景をじっと眼差し、その空間に身を置く人物の言葉にそっと耳を傾ける、そのような視聴覚の洗濯を宮下公園で行なう試みであった…といえばあまりに高踏的な物言いに聞こえてしまうかもしれないけれども…そうなって欲しいという願いが込められていた。「ナイキパーク化の危機に晒されている」といった意味を前面に押し出すことで実際の宮下公園から見落とされてしまうものはあるのだろうか、ないのだろうか…。「ナイキパーク化反対/賛成」と言った考えをひとまず脇に置いて、今ここにある公園をただただじっと眼差したとき、私たちはその風景とどのような関係を改めて取り結ぶのだろう。雑草や落ち葉、木々や風、月や雲、鳥や昆虫の声、鼠や猫の排泄物、階段やスロープ、砂埃や石、落書きや余白、ゴミやアート作品たち。子供たちの声と野宿者たちの寝姿とスケーターたちとグラフィティ・ライターたち、写真学校の生徒たちとお笑い芸人たちと演劇人たちと恋人たちと不審者たち、キャメラを持つ者たちとアーティストたちと活動家たちと。
 もう一つの理由、というよりは、むしろ私の欲望と言い直したほうが適切かもしれないけれども、玉川上水のせせらぎの音を宮下公園に響かせたい、そんな想いがあった。玉川上水には鬱蒼と草が生い茂りなかなか水面すら視認することが叶わない場所もある。それでも映画の後半、ほたる橋に沖島さんと石山さんが肩を並べてボッティチェリについて語らい合うとき、二人を背面から写し出すキャメラは彼らの肩越しに玉川上水の水面を捉え、耳を澄ませば、川のせせらぎの音が確かに響いてくる。宮下公園の脇には暗渠化された渋谷川が流れているという。実際にはよほど雨が降らない限りは水も涸れた暗いトンネルのようなものだというけれども、時間と空間を超えて暗渠化した渋谷川と玉川上水といった二つの場所が共鳴しあう瞬間が顕現し、私たちの想像力を潤してくれるのではないかという願いがあった。さて、どうだったのだろうか…これについてはよく分からないのだけれども。

 『怒る西行』は玉川上水を舞台にした沖島勲の個人映画のようなものだ、と書いた。だから、映画が終わるまで、監督個人の考えをずっと聞かされ続けた気分になった人もいるかもしれない。だが、沖島さんはどこでもない虚の空間ではなく、玉川上水の散歩道といった現実の空間を確かに歩いている。その言葉は沖島さんが久我山に住んで以来、何十年と歩いてきた玉川上水べりの時空間と密接な関わり合いを持っている。自宅の書斎で読んだに違いないー実際に私自身、沖島さんの自宅で目にした関連書籍がいくつかあるー若桑みどり、ボッティチェリ、ヴラマンク、横尾忠則、つげ義春などの固有名がつぶやかれるとき、沖島さんの書斎と玉川上水の散歩道といった二つの場所が柔らかな風に乗ってフワフワと往還し始め、現在の玉川上水の風景に書物の時間や六十歳を超える沖島さんの幼年時代までもがすっと流れ込んでくる。それらは切り離すことはできず、また一体化できるものでもなく、複層的な風景を成しているのだけれども、これは監督である沖島さんに限ったことではない。キャメラのフレームを横切っては消えていくあらゆる通行人の数だけ、玉川上水の時間と空間は複層化してあるはずだ。そのようにスクリーンを眼差しているうちに、あたかもボルヘスが描いた「アレフ」を見つけてしまったような幻惑的な目眩いを感じさせてしまうのがこの作品の力だ、と言い切りたい。映画の冒頭で杉並木の先にあたかも神社が幻視のように見えてくる、と語った沖島さん自身がアフタートークで「今日映画観てみたけど、僕自身、神社があるようには全く見えなかったね(笑)」と告白したとき、多くの人がずっこけたに違いないが、つまるところ沖島さん自身にとっても玉川上水の風景は常に同じ時間と空間である訳ではないということだ。
 そんな映画を私たちは宮下公園で観た。

 先日行なわれた宮下公園の夏祭りにて、宮下公園近辺の古い写真を収集し、当時近隣に住んでいた人たちに写真について語ってもらうという企画をremo東京が行なった。宮下公園が出来る頃のかつての写真と記憶。当時のことを振り返る男性の言葉は単なる追憶に留まらず、2010年の宮下公園の空間に現在の言葉としてしっかり響く力を持つ。暗闇の公園で彼の言葉を聞きながら、宮下公園のあちらこちらで小さな扉が開いていき、過去・現在・未来の時間が流れ出していくような気がした。個々人の身体や記憶と密接に結びついた場所は、無数の形を持ってそこにある。だからこそ、沖島さんが言う「多少でもいいから『地面』に立ってないと幻想すら生きていけない」という言葉にはある種の空間の再編がそのような人間の想像力や存在までも根こそぎ変えてしまうという警鐘を聞き取ることができるはずだ。

 三十分ほど経っただろうか、話し始めたときには鬱蒼とした木々の合間から見えていた月がアフタートークの終わりには、あっという間に西に大きく傾いていきほとんど姿を消そうとしていた。そのときも不思議だったが、今になって振り返るとどう考えても不自然なスピードで月が動いていったように思えて仕方がない。月が消えかけたことを理由にアフタートークを終えた訳だが、今でも釈然としない思いは残る。沖島さんは千四百話にわたって執筆した『まんが日本昔ばなし』の脚本の中で摩訶不思議なストーリーを大いに語り、『出張』(1989年)の中に登場する飲み屋の姉妹もまた実は狸と狐であったかもしれない、という含みを持たせた作り方をしている作家だ。そんな沖島さんを招いた催しだから、きっと狸か狐が私たちをだまくらかしたに違いないという荒唐無稽なこじつけをするに至ったのだが、何のことはない狸は本当に宮下公園にいたらしい。戦前の話ではない。つい最近、山手線の車窓から狸が歩いているのを見かけたというレポートがあった。しかも親子連れで。本当なのだろうか。初めて宮下公園を訪れてから既に十数年が経つが、私は一度も狸を見たことはない。宮下公園について知らないことは沢山ある。

山川宗則 (A.I.R Miyashita Park)

『怒る西行』上映会レポート

「HOSE 夜の演奏会」音のレポート(27分20秒)(赤文字部分をクリックするとサウンドプレイヤーが開きます)

recorded & edited by Taku Unami

「HOSE 夜の演奏会」当日の写真は4枚

8月15日、EVENさんの作品発表会の様子(写真6枚)

EVENさん作品発表会

宮下公園上映会 沖島勲監督『怒る西行』

7/11 「”EMERGENCY” FREE LIVE SHOW」について

 「宮下公園アーティスト・イン・レジデンス(以下A.I.R)」では公園に足を運んだ人たちが出会い、楽しみ、話し合えるような場を作ったり、公園を与えられたものではない形で利用していく意味を込めてイベントを催しています。A.I.Rが自ら企画し主催することもあれば、共催という形でイベントを行なうこともあります。イベントに足を運んだ人たちやイベントを共催する人たちに対して、A.I.Rが管理人のような立場にならぬよう、また、させられぬよう、私たちはみんなで一緒にその場所を作っていくように心がけています。

 私たちが宮下公園にテントを張り、滞在制作を始めた3月15日から3月17日を第一弾A.I.Rとすれば、それ以降は第二弾A.I.Rとして多くのイベントが催されるようになりました。その中の一つとして7月11日の共催のライブ「”EMERGENCY” FREE LIVE SHOW」は行なわれました。

 結論からいえば、今回のイベントに対して三度の警察の介入があり、ライブは途中で打ち切りとなりました。出演7バンドのうち3バンドは演奏をできぬまま終わらざるえませんでした。単なる音量の問題ではなく、警察は二度目の介入から明らかにこれまでのA.I.Rの取り組みに対しての政治弾圧の姿勢で臨んできました。3月16日に宮下公園の原宿側のフェンス封鎖を阻止して以来、一見、公園はのどかな無風状態のように見えていたかもしれませんが、常に緊張状態にあったといえます。区や警察といった権力は、常に私たちを排除せんと公園の様子を伺っていたでしょう。
 また公園を誰もに開いていく日常的な試みの中で、無意識ながらも、声の大きい人、威圧的にふるまってしまう人、女性や立場の弱い人を軽視する発言をする人が公園を訪れ、声をあげることなく公園から遠のいてしまう人たちが出てきてしまうケースもありました。私たちはそのような日常的なレベルでの排除に対しても、より安全な公園を作るという趣旨で対話やワークショップを行なってきました。またテントの存在やA.I.Rの人たちが常に公園にいることによって公園に立寄りにくく感じる人に対しても、誰もが休むことのできるベンチを作ったりしながら「みんなの公園を作る」というプロジェクトを開始しています。最近のイベントでのアルコールの持ち込みについて「ご遠慮ください」「配慮してください」と明記するようになったのは、一見すると不自由に受け取られていたかもしれませんが、多様な人たちが集う公園での「自由」と「安全」について、いま・ここで根底的に考えていく試みの一端であったことを理解していただければと願っています。11日のライブイベントは、ナイキパーク化を阻止しながら「公園をひとびとが作る」という試みが孕んでいる複数の力を一見のどかな公園に顕在化させた点で意義があったと私たちは考えています。

 演奏中の音を止めて様子を伺う、状況説明をしようとする人のマイクを奪って演奏を始めるーー警察の介入時において出演したミュージシャンたちの対応もさまざまで、「表現と場」についての問題も先鋭的に出されたと考えています。海外のある政治的な場でのライブでは、警察の介入があった際にステージ上からみんなと一緒になって闘ったミュージシャンがいました。私たちは、これらいずれに対しても直ちに判断を下すのではなく、表現、自由、安全、公共空間について考え、対話を続けることによって「公園をひとびとが作る」試みを多くの人と一緒に実践していきたいと思います。

 11日のイベントではA.I.Rとして「セイファー・スペース」の取り組みも行なっていましたが、その成り立ちや意図が必ずしもみんなにきちんと伝わっていない様子でした。また警察介入にあたって出演アーティストや来場者に対して、しかるべき情報共有ができていなかったところがあります。混乱があったとはいえ、これらについては「みんなで一緒にその場所を作っていく」という私たちの試みが十全ではなかったと言わざるえませんが、だからこそ今後もこの取り組みを継続していきたいと考えています。

 最後に。警察は「公園ではなくライブハウスで演奏すればいいんだ!」と私たちに言い放ちました。警察の言い放った言葉を私たちは反転させましょう。ライブハウスは公園ではありません。公園に集い、表現することについて11日のライブに立ち会った人たちは、それぞれで考えを反芻し、深めて欲しいと私たちは願っています。そして、また再会しましょう。イベントだけではなく、日常の静かで力強い公園の中で。

(宮下公園 アーティスト・イン・レジデンス)


※PINPRICK PUNISHMENTの文章はこちら

7/11 「”EMERGENCY” FREE LIVE SHOW」について

『HER STORIES』上映会レポート

 この映画を制作した発端は「女性は好きで派遣をやっている」発言を聞いた事だった。その発言を聞いた日から、私の中に微妙なわだかまりが生まれた。本当に女性達は自分の意志で「好きで」様々な労働を担って来たのか?それについて多くの女性達と語り合いたくてこの映画を撮った。

 よくこの映画については「いわゆるプライベートドキュメンタリーですか?」と問われる。この言葉は90年代に流行した自分の実存やプライベートを露呈するタイプの私的なドキュメンタリーの事を指す。

 でも、残念ながらそれは違う。私は始めからそれを望んでいない。
 自分の実存の問題について理解して欲しいわけでも「自分探し」でもない。

 最初からあらかじめ最底辺労働を担う女性にむけて制作され、自分自信もその当事者として、そして母も、祖母もこの中では肉親というよりも「同志」として対象化したくて登場してもらった。
 予想通り女性の反応がいい。なぜ語りが必要なのかがあるカテゴリーの人々には伝わらない。マジョリティーに伝わらない手法に苛立たれる事、キレられることも多々ある。この映画はほとんどが女の愚痴だからだ。延々と続く「愚痴」に対しての反応でその人の歴史もみえてくるかもしれない。 今回の上映でも一部の男性は途中で我慢できず携帯をいじったりしていた。でも、確実にある層にはその語りの必然性が伝わっている様だった

 今回嬉しかったのはある男性に「よかったです」と言われ、その方のプライベートなお話しも少し聞けた事でした。届けたい人と想いを共有できることの至福を味わった数時間でした。(根来祐)


 映画の中の根来さんは電車に乗って帰るようで、でも遠くに行くようなかんじで、母や祖母に会いに行く。「娘」「お母さん」「おばあちゃん」という立場で、それぞれの世代の仕事、生きかたを語るとき、対立したり共感したり。母娘の閉ざされた関係の中で、ゴツゴツと窮屈なこと、わたしもあるなーと思いました。でも、ビデオを撮る「わたし」や、描いた絵を眺めて語るふたり、またお茶を点てあう3人の場面は、横並びの安心できるすがたのように見えました。それは、仕事じゃなく、家族でもなく、それぞれの「わたし」として手放さないことがある。このことを守るには、「家族のために生きて幸せだ」と公言していかなければならないのか?
 映画の後に、根来監督が個人史をみせたかったわけではない、と話していたように、これは女性の多くの人たちが感じている母娘関係で、さらに、「わたし」がない「母」という立場に挑む「娘」についてだったように感じました。また、フリートークでは、同じ女性の立場の人から、「映画の中では男の人がひとりも出てこないのに、『お父さんは、』と『母』が語り、『おじいちゃんは、』『お父さんは、』と『祖母』が語って登場していた。」というコメントがありました。そのように、一人称がわたしではなく「お母さんはね」「お父さんがね」と、「わたし」でいることを奪われていること、それが社会では自明とされて、それどころか美しく正しいことのように語られていることは多いと思います。でも、この映画ではそれをたんたんと見据えて、根来監督の「わたし」を通して、女の、わたしは誰か?あなたは誰か?ということに向かわせてくれているように感じました。「母」、「妻」、「恋人」でもなく、女の人がひとりで尊重される空間が、公園にどれほどあるかということを考えていきたいです。(いちむら)

『HER STORIES』上映会レポート

「公園の夜、静かな夜 vol.1」レポート
日時 6月12日(土)20:00〜24:00
場所 宮下公園原宿側
出演 waguratelosuchi、iello、りす、スッパマイクロパンチョップ+MC.sirafu

涼やかに晴れた夜でした。
 
日が沈んだあとも夜空はずっと青く、園内に敷かれたブルーシートはその色を反射しているようでした。
あちこちに置かれた空き缶にはローソクの火が点り、薄く光る蝙蝠傘がその間を縫って、ゆっくりと移動していました。
ざわざわと揺れる木の葉たちの向こうに聞こえる電車の音、自動車の音、いろんな人の声と足音。いつもと変わらない夜。
 
4組のアーティストはその一部となって、聴く人もその一部となって、近くにいる人の顔がよく見えなくなるまで、その時間は続きました。
 
聴きに来てくれた方。寝転んでくれた方。そのまましばらく眠ってくれた方。
 
ありがとうございました。
すばらしい夜でした。
 

6/20 「宮下公園大学」報告

「誰もが学ぶことができる市民大学」、宮下公園大学。第1回目の今回は、参加者50名ほどだったでしょうか。
茨城大からお越しくださった稲葉さんの話を聞く時間にくわえ、質疑応答の時間が設けられました。
パリで起こった、住む家を持たない人々の住居占拠運動や、通りを占拠する大学「民衆大学」についての話を聞くことができました。

フランスの活動家たちは、日本の運動が長期間、公園を占拠し続けていることに驚かれるそうです。
でも日本の活動家も、フランスなどで行われる空家のスクワットは、日本ではとてもできないのではと考えます。
こういったことは、「公園」や住居の「所有権」などをめぐって社会である程度共有された認識の違いからきているのかもしれません。

興味深かったのは、「住む家」などを求める運動をする人々からみて、日本での、アート活動と連携した表現の場を求める運動、あるいはそこで何をするでもない自由な場所、空き地を守ろうとする運動が、自分たちよりもより「ラディカル(急進的、根本的)」な運動として映っているということでした。
それは、稲葉さんの言葉を借りていえば、企業の論理がすべてを包摂しようとする渋谷のような商業都市において、「ムダなもの」の価値を問題化しているという意味で、よりラディカル、つまり現代の社会のありかたを根本的に批判しえているのではないか、と。
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6/20 「宮下公園大学」報告

「『外泊』観て外泊しましょ! 穴あきの会」レポート

 女が、家で寝るとき、職場のスーパーに立てこもって寝るとき、公園で寝るとき。
 夜は女にどれほど開かれているだろうか?
A.I.Rに泊まる人のなかで、女は数人しかいない。「この場所を女の野宿で埋め尽くしたい」と言ういちむらの願いはかなわなかったが、「外泊」で外泊のアクションの晩は、女が男の人数を上回った。またその夜、公園の真ん中では十数人の女の人たちが車座になって集まり夜のピクニックのように食べ物を広げて話す。お茶汲みはしない。食べ物は持ち寄りで。子守りアリ。このように女のいられる場所をつくる。大勢で女たちがテントで野宿することや、夜に座り込んで話し合っていることそのものが、性暴力反対でもあり、公共を問うアクションだ。
 次の日、泊まった女の人たちが集まって、朝ごはんを食べていた。その女だけのグループがあることに、違和感を持った男の人たちがいた。まさに、そのような違和感を女の立場の人たちが、多くのところで感じでいるのだ。
 そうして、いちむらの願いが叶わなかったこと、また違和感をもった人たちがいたこと、そのことが、穴あきの会の次のアクションを生んでいくだろう。

参加者Uさんの感想:
 団体の中で、ミーティングが行われるとき、いつも男性が8割を占め、女性はいたとしても1人、または2人・・
その居心地の悪さは、女性であれば誰しも感じたことがあるだろうと思う。
 その中で女性は居心地の悪さを感じながらも、その場に座り溶け込もうとし、その手段として、あれこれ気を使ったりお茶を入れたりすることもある。もしくは、聞きたくもない話を笑顔でうなづいて聞いてしまったりすることもある。意識しなくても、そのように自然に体が動いてしまうこともある。
 そのような場では、男性の前で意見を言うことに威圧感を感じることもままある。しかし、男性はそのことにまったく気がつかず、それを当然のことのように思っていて、女性が感じる居心地の悪さなど感じたこともない。男性達は、自分達の言いたい意見をいい、したいように振舞う。
 このように女性は、いつも恋愛や性的なもの、母親や娘としての役割を担う存在としては意識され続けていても、それ以外の存在としてはまったく意識されずむしろ無視され続けてきた。性や恋愛であること、そして母親や娘の役割は求められても、意見は求められない。そもそも女性には意見などないかのようだ。
 そのような中で、女性がモノをいい、暴力や役割を拒否し集まることは、それだけですでに、女性の存在を際立たせる。社会が求めている女性像を一歩でも踏み出したとたん、それは強烈な存在感を持つ。当然、男性たちはこれまでに感じたことのない違和感を感じて、焦るだろう。
 そのとき、考えてみて欲しい。どうして、これまで男性たちが違和感を感じたことがなかったか?ということを。その「違和感」こそが、これまで自分達が生きてきた社会や空間、そして男性、その存在そのものについて考える第一歩である。「外泊」で外泊しましょ!は、それを示した記念すべきイベントとなった。

※『外泊』上映会についてはこちらをご参照ください。

「『外泊』観て外泊しましょ! 穴あきの会」レポート

6月4日『ククル』上映会報告

6月4日夜、宮下公園でゆんたく高江と宮下公園A.I.R共催の映画上映+トーク+ミニライブのイベントを行いました。
素敵な案内板にいざなわれて宮下公園原宿側に入ると・・・
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6月4日『ククル』上映会報告

路上演劇「フリーダとディエゴ」
Alejandra Rescala アレハンドラ レスカーラ
Rodrigo Corea ロドリゴ コレア
from メキシコ

今回の路上演劇は、東京での路上演劇祭と連携しながらおこなわれている浜松の路上演劇祭実行委員会が招聘したふたりのメキシコ人俳優による約25分の演劇作品です。28日に宮下公園で上演できないかと打診があり、29日の夜に打ち合わせをし、5月30日(日)16時〜から原宿側のジャングルジムの辺りで上演しました。

告知にもありましたが、メキシコを代表する画家、フリーダ・カーロとディエゴ・リべラの関係をイメージしたパフォーマンスで、ディエゴのフリーダに対する「愛」と、フリーダの苦難を描いています。とくに「わたしは溺れそうだった。でも、自分で泳ぐことを覚えた。」というフリーダの日記の記述に触発されて制作された作品です。

フリーダ役のアレハンドラは、フリーダ・カーロの肖像が描かれた赤い衣装に、メキシコの路上演劇でよくつかわれる高足(竹馬を脚にくくりつけたようなもの)を履き、ディエゴ役のロドリゴに担がれて、倉庫テント(現在インフォセンター)の陰から登場。砂場脇を通って近づいてくる鮮やかなふたり。公園は一瞬で舞台に変わりました。

樹から樹へ洗濯ロープが張られ、劇中、幼くして患った病と事故の後遺症に生涯苦しめられたフリーダのレントゲン写真が、洗濯物を干すようにディエゴによってロープに掛けられ、フリーダは大きな絵筆をふるいます。高足で不安定に歩んでいたフリーダが倒れ、ディエゴによって受け止められ、高足が外されます。
自分の足で立ったフリーダ。踊るふたり。その時、時が止まり、フリーダはディエゴの腕をすり抜けて、ひとりでしっかりした足取りで歩むのですが、やがてディエゴのもとに戻ってゆく…。

終演後、俳優を囲んでのアフタートークがおこなわれ、気温が下がるなか、20人ほどの人が残ってくださいました。はじめに作品について出演したふたりに簡単に紹介してもらい、その後は観客の質問に答える形で進められました。幸いスペイン語の堪能な友人がその場で通訳を引き受けてくれました

主にメキシコでの路上演劇の状況やふたりの活動について、そして作品にかかわる感想と質問がありました。メキシコでも基本的に路上での上演は許可を取らないと規制されるが、彼らは道行く人に観てもらえる路上での上演を続けていること。また、観客からディエゴとフリーダの関係の解釈について、ディエゴがフリーダを導き解放したという描き方になっていたが、ディエゴはフリーダを利用したのではなかったかとの違和感についても率直に投げかけられました。
最後に彼らはメキシコにはまだ多くのディエゴとフリーダがおり、彼らに語りかけたいのだと話していました。

5月はじめに、メキシコから東京の路上演劇祭を見に来ていた俳優、演出家、オーガナイザーのギジェルモ・ディアス・マドリッド氏が宮下を訪れて、A.I.R.の運動に賛同して、若いふたりの俳優につなげてくれたことが今回の緊急上演につながりました。とても良い形でつながったこと、—運動の趣旨を彼らなりに理解し、表現を通じて賛同の意を表してくれたこと、そのことがまた彼ら自身の表現活動にも意味のある経験になったこと—がとてもうれしかった。

原宿側から階段を上がってきた通りすがりの人も足を止めてくれたり、告知期間がほとんどなかったのに寒いなか熱心にアフタートークに参加してくれた観客がいたり、本来ゲリラ的に出現する路上演劇が、路上演劇として成立していた稀有な状況だったと思います。

それは、公園が彼らの表現によって異なる時空に変わるダイナミズムが機能した瞬間であり、集まった人と、作品とその背景について、膝を突き合わせて話し合う親密な時間だった。しかも演目はメキシコで民衆文化運動として壁画運動の一翼を担った画家ディエゴ・リベラと、彼のマチスモ(男性優位主義)に悩まされながらも、独自の絵画世界をひらき、自らも自由に交友関係を結んで自律的に生きたフリーダの葛藤について描いたもので、A.I.R.の運動にも響き合う内容を含んでいた。さらにディエゴやフリーダのことを知らなくとも、観客にメキシコの文化への関心を呼び起こすなど、さまざまな契機になったのではないかと思います。

事前の許可申請、あるいは東京都の場合、「ヘブンアーティスト」という免許(ライセンス)制!?のもとに管理が進む公園。もっとのびのびと路上演劇もパーフォーマンスも上演していけたら、息苦しさがやわらいで、もう少し息が楽にできるようになるのではないか、そう実感しました。

そして、ふたりの若い俳優、アレハンドラとロドリゴは、宮下公園で上演できたことをとても喜び、感謝の気持ちを伝えてほしい、そして引き続き支援したいと伝言を残してくれました。

5月30日(日)路上演劇「フリーダとディエゴ」レポート