女が、家で寝るとき、職場のスーパーに立てこもって寝るとき、公園で寝るとき。
夜は女にどれほど開かれているだろうか?
A.I.Rに泊まる人のなかで、女は数人しかいない。「この場所を女の野宿で埋め尽くしたい」と言ういちむらの願いはかなわなかったが、「外泊」で外泊のアクションの晩は、女が男の人数を上回った。またその夜、公園の真ん中では十数人の女の人たちが車座になって集まり夜のピクニックのように食べ物を広げて話す。お茶汲みはしない。食べ物は持ち寄りで。子守りアリ。このように女のいられる場所をつくる。大勢で女たちがテントで野宿することや、夜に座り込んで話し合っていることそのものが、性暴力反対でもあり、公共を問うアクションだ。
次の日、泊まった女の人たちが集まって、朝ごはんを食べていた。その女だけのグループがあることに、違和感を持った男の人たちがいた。まさに、そのような違和感を女の立場の人たちが、多くのところで感じでいるのだ。
そうして、いちむらの願いが叶わなかったこと、また違和感をもった人たちがいたこと、そのことが、穴あきの会の次のアクションを生んでいくだろう。
参加者Uさんの感想:
団体の中で、ミーティングが行われるとき、いつも男性が8割を占め、女性はいたとしても1人、または2人・・
その居心地の悪さは、女性であれば誰しも感じたことがあるだろうと思う。
その中で女性は居心地の悪さを感じながらも、その場に座り溶け込もうとし、その手段として、あれこれ気を使ったりお茶を入れたりすることもある。もしくは、聞きたくもない話を笑顔でうなづいて聞いてしまったりすることもある。意識しなくても、そのように自然に体が動いてしまうこともある。
そのような場では、男性の前で意見を言うことに威圧感を感じることもままある。しかし、男性はそのことにまったく気がつかず、それを当然のことのように思っていて、女性が感じる居心地の悪さなど感じたこともない。男性達は、自分達の言いたい意見をいい、したいように振舞う。
このように女性は、いつも恋愛や性的なもの、母親や娘としての役割を担う存在としては意識され続けていても、それ以外の存在としてはまったく意識されずむしろ無視され続けてきた。性や恋愛であること、そして母親や娘の役割は求められても、意見は求められない。そもそも女性には意見などないかのようだ。
そのような中で、女性がモノをいい、暴力や役割を拒否し集まることは、それだけですでに、女性の存在を際立たせる。社会が求めている女性像を一歩でも踏み出したとたん、それは強烈な存在感を持つ。当然、男性たちはこれまでに感じたことのない違和感を感じて、焦るだろう。
そのとき、考えてみて欲しい。どうして、これまで男性たちが違和感を感じたことがなかったか?ということを。その「違和感」こそが、これまで自分達が生きてきた社会や空間、そして男性、その存在そのものについて考える第一歩である。「外泊」で外泊しましょ!は、それを示した記念すべきイベントとなった。
※『外泊』上映会についてはこちらをご参照ください。
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